嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第34話:ホンダのチェーン化(その1)

ホンダのチェーン化第一号S2000(1999年発売)



欧州での動弁機構へのタイミングベルトの採用はメジャーなクルマでは1969年頃からフィアットが、1973年頃からVWが行ったのが始まりの様だが、日本では1972年にホンダがライフとシビックに採用したのが始まりだ。その後は日本でも瞬く間に広まり乗用車用エンジンではほぼ全てタイミングベルト一色になったのはこのブログでも書いた通りだ。そういう意味ではホンダはタイミングベルトエンジンの総本山的な存在だったが、そのホンダからチェーン化の話が舞い込んだのは恭作の帰国直後の1996年だった。(量産を前提としない開発話は恭作のアメリカ赴任前から存在したが)それがS2000用エンジンで開発当初は05Eチェーンシステムで計画されていた。しかし二輪部門でサイレントチェーンを使い慣れているホンダだけあって、実績のあるバルグワーナー製サイレントチェーンに変更になり、その他のタイミングシステム(ガイドレバー類とテンショナー)は橋本知恵院で進んでいた。この時のホンダの動弁機構開発担当者Nは癖者で散々’あーでも無い、こーでも無い’となん癖を付けまくり、山王工場まで来て自分の会社の様に振る舞い、好き放題設計変更を繰り返し、最後は他社(MTM)にテンショナーを転注してしまった。これが性能や耐久性に問題があり失注したなら納得もしたが、散々のわがまま的要求を全部飲んでの突然の転注だったのでさすがに恭作はブチ切れた。当時営業部長代行だった山仲さんとも意見が合い‘テンショナー受注出来ないならシステム保証出来ないのでガイドレバー類も辞退する’と正式に申し入れた。これには天下のホンダも開発が間に合わないと焦り、システム保証はしないという条件でなんとかガイドレバー類だけでもやるという事で落ち着いた。当然N氏とはかなり険悪なムードになり、’鈴木さんは橋本知恵院の何様にあらせられるのですか?’と嫌味をたっぷり浴びせられた。しかしバルグワーナーでも全く同じトラブルが起きていたのを知ったのはこの少し後にN氏か突然ホンダを退職したと聞かされた時だ。

バルグワーナーの不満は恭作のそれとほぼ同じで(聞くところによるとバルグに対する傍若無人ぶりはもっと凄かったらしい)、それに対するバルグの対応がもっと凄く’N氏をS2000の担当から降ろさないとバルグワーナーはサイレントチェーンの供給を辞める’とのクレームを社長名で申し入れたそうだ。N氏は程なくしてS2000担当から外され、自らホンダを退職した。江戸時代の農民一揆の様な話しだ。

S2000はご存知の通り少量生産のスポーツカーなので商売的には大した売上数字では無かったが、このエンジン開発が成功したのをきっかけにホンダの他の量産エンジンも全てチェーン化する事になった様だ。しかしこのままではチェーンがバルグ、テンショナーがMTM,橋本知恵院はガイドレバー類しか受注出来そうにないという問題も抱えてしまった。しかしここでまた神風が吹いた。その話は次話で。