嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第36話:あの頃のみんな(1990年代後半~2000年代初期)

あの頃恭作が必ず新谷君とカラオケしていたラブマシーン

恭作が帰国してから6〜7年はベルト→チェーンの激動期でこの30年近くの戦争?(オセロゲーム)はチェーンの逆転勝利が決定的になった時期だった訳だが、あの頃その後偉くなった人達とかは何をしていたんだろう?

宮字君はベルトからチェーン系技術に移り恭作の次の次のUS技術駐在員となった。その頃主席駐在員は松元さんで製造系は和太くんとか打丸君とか茂松君(順序は定かで無い)だったので酒飲みが少なく、欲求不満の宮字君の為に恭作が出張する時2Lのペットボトルにお気に入りの日本酒正雪を詰めて持って行き、ホテルに戻らないで宮字くんの家で泊まりがけで飲んだりした。中窪君はベルト用オートテンショナー開発を卒業して豊田営業所でトヨタのチェーン化の仕上げに携わっていた。井之上くんは技術から調達課長を経て製造に移っていった。砂糖功君は2000年過ぎくらいに鳥薗君や小宮間さんと同時に海外事業部から自動車に移ってきた。これは小宮崎さんが帰国して自動車の事業部長になった時に海外要員として集めた人達だ。実際その後、砂糖功君はUS主席駐在員に、鳥薗君はUK主席駐在員に、小宮間さんは初代橋本タイの社長になったのだ。上海初代総経理の加東さんや二代目タイ社長の早史さんが自動車に来たのはその数年後だ。

冨士原さんはベルト技術消滅の後、研究課長を経て技術部長になった。恭作の師匠荻野谷さんはサイレントチェーンの開発が一段落したので管理部へ移って行ったので、この時点でチェーン技術系最古参は恭作(当時DS課長)となり実質的にチェーン系技術のトップとなり、益々イケイケドンドンとなっていった。(冨士原さんは技術者タイプでは無く完全に管理者タイプだったので恭作のする事に一切口出ししなかった。いや、出来なかったのかも)

新世代の技術者が入社したのもこのころだ。恭作に言わせれば’戦争を知らない子供達’になるのだが、新谷君、川野君、飛来山君、張本君などその後技術を引っ張っていった連中だ。この頃の大卒配属面接で恭作は必ず’酒は飲めるか?’と聞いていたが、新谷君はかなり飲むと答えてくれたのでDS課に引っ張ったというエピソードもある。呉松もこの少し後の入社なのだがテンショナー製造課に配属になったので恭作が彼を知ったのは大分後の事だ。彼がその質問になんと答えたかは覚えていない。

さて、ベルトとの戦争は終わったが次のバルグワーナーとのチェーンシェア世界一争いの戦争は既に始まっていた。