嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第35話:ホンダのチェーン化(その2)

ホンダ初のチェーン採用量産エンジンK20A搭載車ストリーム(2000年発売)

N氏の代わりに動弁機構開発担当になったのはI氏である。この方はN氏とは打って変わってとてもリーズナブルで物分かりの良い方だった。(今やホンダの役員である)1997年に発売された初代プリウスのNZエンジンをベンチマークし恭作特許のバックラッシュ付ラチェット式テンショナーをとても気に入って頂いて、恭作自らプレゼンに行った。I氏はS2000のテンショナーには量産エンジンとして疑問と不満を持っていたらしく、このプレゼンは大受けしあっという間に量産型エンジンのテンショナーは橋本知恵院に変更になった。この時また神風が吹いたと実感した。タイプR対応等で高圧リリーフバルブが必要となったがこれも恭作が特許出願しシェアを確保出来たし、日産などにもその後使用出来た。(そもそも単願を許可してくれたI氏にも感謝している。N氏だったら絶対に単願させてもらえなかっただろう)

チェーンのプレゼンもしたがこの頃のVC処理はバルグに敵わず、その他も色々ホンダ独特な要求もあり日産立上げで目一杯だった橋本知恵院はチェーン受注を諦めた。結果的にこの判断は正しく、ホンダのタイミングチェーンシステムはチェーン以外(テンショナーとガイドレバー類)が橋本知恵院、チェーンがバルグという併注の形になり、売り上げ構成では4割がチェーン、6割がチェーン以外という形だったので得をした。ちなみにチェーンはその後台同が参入したのでバルグの売上シェアは下がり、チェーン以外を確保した橋本知恵院が1番得をして現在に至る。客先担当者との大喧嘩で始まったホンダとのお付き合いだが、この神風のおかげでめでたしめでたしとなった。

因みに恭作の客先との喧嘩エピソードはこれだけでは無く、古くはスズキGSX750/1100Rの開発時、韓国プロジェクトての起亜ディーゼルバランサー、まだ書いていないトヨタZZエンジン伸び対策時、スバル水平対抗6気筒エンジンの開発時、日産からいすゞに転職したYDエンジン開発者とのいすゞでの喧嘩など全部書けない程色々ある。恭作はサプライヤーだって同じ目的を持った技術者なのだから技術論は対等に展開すべきとのポリシーを持っていて、客なんだから何でも言う事に従えという態度には反感を持つからだ。

これでベルト対チェーンのオセロゲームの行方はほぼ決まった。トヨタ、日産、ホンダが全てチェーン化となって四隅のうち3隅取った様なものだ。この少し後位に日産主催の動弁機構シンポジウムに恭作はチェーンもベルトもやっているサプライヤーとして招かれ、タイミングシステムの行方について講演した。当然一部を除いてほぼチェーン化するという主旨の講演だったが、ベルトメーカーからの参加者も多く、彼らからは冷やかな、そしてやっぱりそうかという落胆の雰囲気が感じられた。恭作入社以来のベルトvsチェーンのオセロゲームは大逆転勝利で終了したとその時実感した。