嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第53話: 東日本大震災と関西単身赴任

単身赴任2ヶ月前に出場した人生2回目のフルマラソン

役員になって8年目の2011年4月、京都府の京棚部工場に単身赴任した。内容は一般産業事業部長兼工場長で断りようも無かった。(ブログとして役員になってからの8年間くらいの裏話はあまり書いていない。実本社長の逝去やその後の役員人事を含めて公私共にあまりにもDeep過ぎるものが多いので自主規制した。下書きはある程度したのでまた別のアカウントや著者名で限定公開でもしようかと考えている)

2011年と言えば3月11日に東日本大震災があった時だ。その時恭作は単身赴任直前のタイミングだったが大阪の本社にいた。大阪でもかなりの揺れだったので皆がTVをつけるととんでもない映像が飛び込んできた。2001年9月11日のニューヨークのテロ映像以上の衝撃だった。翌日何とかして東京まで帰ったがその後も結構大変だった。

仕事上は計画停電で電気が止まるし(山王工場は鋳造と熱処理が全て電気炉で、その西埼玉地区では西武鉄道に次ぐ電気のヘビーユーザなので電気はしょっちゅう止まった)通勤でも信号機がつかない事もあり怖かった。私生活でも納豆、食パン、ガソリンなどが手に入らず関西への引越しの時はGSに2時間以上並んで給油した。

大変な関東から抜け出してきたという感じで関西での単身赴任生活が始まった。私生活では定席の京棚部工場から20km離れた駅近の2LDKマンションを借りた。山王工場だと遠い通勤距離だが道は空いているし一部高速道路も使えたのでクルマ通勤は30分しかかからず、飲み会や大阪本社出張で電車を使う時も便利だった。完全な住宅街で遊ぶ所が皆無だった事以外満足していたが、至近に地下クラブ(キャバクラの高級バージョン)があったのを 知ったのは単身赴任終了半年前近くだった。その話は少し後のブログで。

仕事は入社して33年間自動車ビジネスにしか携わってこなかった恭作にとっては新入社員になったような気持ちだった。しかしそこに待ち受けていたのは山王工場の自動車事業部とはまるで違う(ビジネスはもちろん、人間の雰囲気、上下関係、文化などなど)世界だった。

とりあえず期初の挨拶として食堂で工場全員の前で話をしたが、猫が好きだとか江原啓之さん(スピルチュアル系)が好きとか柔らかい話で入ったりして女性社員には受けが良かったらしい。一方で最初の開発系会議ではあまりの人数の多さにブチ切れて(どうでも良い、ただ偉いさんが出るから俺らも出なくちゃという感じの人で溢れかえっていた)、一部で気分を悪くした人まで出たと聞いた。山王工場ではその程度では誰も何とも思わない程度のキレだったのだが・・・。こういった賛否両論の批評を受けながら新天地での采配が始まった。