嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第23話:悲喜交々の北米駐在員生活-3

月1のカラオケ集会@南の館

この頃は山王の自動車事業部も関西の一般産業事業部も北米現地化の山場で両事業部からボリヨーク工場にそれぞれ5~6家族、計10~12家族が駐在していた。自動車の主席駐在員はデトロイトから移動してきた小宮崎さん、関西からの主席は小腹さんだったが、一年後小腹さんは帰国し代わりに壱川さん(その後関西の事業部長を経て専務まで上り詰めた人)が来た。この両主席は同期で水と油だった。駐在員は基本どちらとも上手くやっていたが、駐在員の奥さん達は小宮崎派と壱川派に別れたっぽくて面倒臭さかった。山王と関西に別れた訳とでも無く、住んでる地域や子供の有無/年齢などが影響していたと思うが、女性のこういう面は理解し難かった。前述の月一のカラオケ集会は南(ロングメドウというボリヨークから南に位置する高級住宅地)の小宮崎家と,北(サウスハドレーというまた別の北の高級住宅地)の壱川家と交互に行われていた。壱川さんの奥さんはまるでスナックのママ風(三冠王の落合夫人に雰囲気が良く似ていた)で男衆からは人気があった。恭作も気に入られその17~18年後に関西に単身赴任した時、壱川家にお呼ばれして泊まった程だ。

この時代駐在員の奥さんは帰国してからも橋元レディースというOG会組織(関西も山王も)を組んで食事会などしていて若い層には苦痛だったのだが、 後に恭作が役員になった時に少なくとも山王地区は解散させた。関西はどうなったか知らない。

 駐在員は何とかうまくやっていたと書いたが、恭作は仕事のポリシーに対しては譲れなく、この時の上司である小宮崎さんとはよく衝突した。上司だが一般産業から来たばかりで自動車の技術の事は詳しく無いし、恭作のなるべく残業しないというポリシーも理解してもらえなかった。要するに上司より先に帰る部下が気に入らなかったらしい。(当たり前だがRich等事務職系現地人は残業などしない) 小宮崎さんとは別に仲が良い方では無い位に考えていたら、恭作が39才の時に問題が起きた。恭作の一年下の山王工場の大卒社員Nが幹部職になったのだ。山王の社員の出世は山王の事業部の上司が推薦とかの管理をしていたが、海外駐在になると駐在先の上司、つまり小宮崎さんの管理になるのだ。幹部職になれなかったのが問題で無く、ここまで自動車事業に貢献してきた自分が同じ事業部の大した事無い奴(いや、むしろ偉いさんと麻雀ばかりして顔売ってただけの奴)に先を越された(受験してし落ちたのなら納得もいくが上司から推薦すらしてもらえなかった)のが我慢出来なかった。これには山王工場の偉いさん達にもかなり苦情を出したが、どうにもならなかった。日本にいたら絶対退職していただろうと思ったがアメリカだし今ほどネット社会でも無いので泣き寝入りした。まあ結果的にはこの苦情も効いて一年後の帰国直前の40歳の時無事幹部職試験に合格したのだが•・•  -続く-