嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第62話:京都のクラブ(その1)

京都NO.1と噂される高級クラブ

橋本知恵院の兄弟会社橋本興業の橋本社長(現会長)は気難しく周りから恐れられていたが、何故か恭作とは相性が良かった。特にゴルフでは機嫌が悪くなると若いキャディーさんが泣いて帰った事もあるという伝説の持ち主だが、恭作と回る時はいつも機嫌が良くて橋本興業の人達からは不思議がられていた。夜の会食もたまに誘っていただけたのだが最も印象的だったのは二次会で祇園近くにある京都で1番高い(値段が)クラブに行った時だ。金箔貼りの超VIPルーム(写真参照)に通されたのだが、古民家をリフォームした建物なのでネズミ2匹が出没したのだ。しかも橋本社長の足元から駆け上がってきたのだ。橋本興業の取巻連中も恭作も今日は終わったなと青ざめた。結局店の若いスタッフまで総出でネズミを捕まえようとしたが捕まらずVIPルームは閉鎖となり別の個室に移動した。店のママを初めスタッフは平身低頭で無料でピンドン(ロゼのドンペリ)が数本出てきた。ピンドンのせいだけでは無いと思うが橋本社長の機嫌は良く、生まれて初めてピンドンもを飲んだ恭作はネズミちゃん達に感謝した。

そこで恭作に付いたホステス(写真参照)から情報を得たのだが何と恭作が住んでいる街に高級クラブが出来てかなりお客さんを奪われているらしい。以前に書いた様に近所は住宅地で毎日の様にジョギングしているのに見た事も無いのでその時は何かの間違い位に思っていた。しかし、その数ヶ月後それが事実だと知った。-続く-

第61話: 月一飲み会

スタッフに背中を押され購入したレクサス

恭作が京棚部に赴任しての一年目は天津工場建設を初め目まぐるしく過ぎて超多忙だったが、2年目になってようやく落ち着いてきた。そこで当時の管理部長神谷君の発案で色々な部署と親睦会をやりましょうという事になった。京棚部赴任になって単身赴任手当や事業部長/工場長になったことにより給料もかなり上がって金銭的に余裕ができたので、参加してくれる人は1000円会費で残りは恭作のポケットマネーへで払うという形でスタートした。参加条件は非幹部職で10人以下とし、これを月一回一年以上続けほぼ全ての課を網羅出来た。これにより従業員との距離はかなり縮まったんじゃないかと自負している。幹部職をシャットアウトしたのでそこそこの本音は聞けたと思うし、前任者による出費締め付けで疲弊していた雰囲気の解消に多少は役になったかもしれない。管理部が気を使ったのか、従業員達が気を使ったのか、いつも京棚部市内の安い居酒屋が会場になり同じ所には行かなかったので当時の市内の大衆居酒屋はほぼ制覇したと思う。

その飲み会で最も印象的だった従業員側からのクレームは恭作が乗っていたクルマに対するモノだった。当時クルマの駐車スペースは工場トップなので1番事務所の入口に近い目立つ所に指定されていたのだが、そこに転勤の一年前に買った3代目プリウスを駐めていた。しかしその横の来客スペースに工場指導アドバイザーのBMW(3シリーズ)がよく停まっていたのをその従業員は悔しいと思っていたそうだ。「なんでアドバイザーがBMWで、我が工場のトップがプリウスなんですか?夢無いっすよね。もっと良いクルマ乗ってくださいよ」というクレームだった。恭作としては発売されてすぐ買った新型プリウスだったので非常に気に入っていたのだが、「そっか。周りから見るともっと高級車買わないと行けないんだ」と妙に納得した。恭作のポリシーとして自社の部品が付いていることは絶対条件だったので、その中でそこそこの価格でカッコ良くて高級感溢れるクルマを検討しレクサスis300hを買う事にした。このクルマは発売から10年以上経っている現在でもフルモデルチェンジしていない珍しいクルマだ。おかげで9年乗った後の売却時、ボディに凹みがあるにも拘らず150万円で下取りしてくれた。背中を押してくれたそのスタッフには感謝している。

第60話:天津工場開業と派閥争い事件

天津第一工場

とりあえず天津工場が完成したのは2012年の夏近くで、恭作が1人で天津に乗り込んでから1年余りというスピードだった。その頃には日本人総経理も決定していて技術系及び人事系駐在員と工場長の山部君との日本人は4人体制でスタートした。現地人スタッフも続々と採用が進み設備も導入されていって会社らしくなり正式にはそのまた一年後の開業となった。山王工場に後に出向したナンチャンもその時の採用だ。特にトヨタの天津工場のいくつかある内の一つの工場長だったハウさんまで採用出来たのは第58話で登場したヤンさんやシエさんの人脈のおかげだろう。しかしこれらの現地人と当時の総経理は上手くいっておらず、一年後に事件が起きた。

会社が運営されて一年以上も経つと色々ドロドロした問題が出来てくる。特にアジアは韓国も含めてそうみたいだ。(タイは担当役員で無かったので良く知らないが余りトラブルの話は聞こえてこなかった。社長の小宮山さんが上手くやっていたのかも)日本人総経理と日本人総務駐在員と中国人女性総務部長が仲が良く、中国人製造部長率いる現地人達から反感を買っていたようだ。簡単に言うと金に厳しすぎる総経理派閥と多少は自由にやりたい現地人派閥の争いだ。例えばこの総経理のやり方だとここ数話書いている京棚部のトップとしての接待も全てアウトという事になってしまう。会社に損害を与える様な金銭の受授はまずいがアジアなんだから多少の事は目をつぶらないと上手く行かない。詳しくは書けないが、こんなに天津工場が早く出来たのもそういう裏世界の活動もあったからだ。またそういう性格の総経理はヤンさんとも上手くいく訳も無くトラブル続きだった。因みにヤンさんはこの天津工場に数億円の出資をしている共同経営者だ。

事件はそんな中起きた。あろう事か京棚部の恭作の元に国際宅配便の封筒が届き、中身は工場内を含めた場所での中国人女性総務部長(亭主持ち)と日本人総務駐在員(独身)の不倫イチャイチャ写真だった。中にはその女性の下着姿の写真まで含まれており、生々しいモノだった。文書は中国語で書かれており当時恭作のスタッフだった且君(その後自動車に移動した)に訳してもらったが、「こんな事してる総務部は許せない、董事長(=恭作)なんとかしてください」という内容だった。当然、恭作は尾左社長に報告し、その日本人駐在員は強制帰国となった。(後日談を言うとその女性は離婚し、その駐在員と結婚した。総経理も比較的早く交代となった。問題のハウかさんも色々あって辞めてしまった。)

そんなんで天津工場は第57話で書いた様に過剰設備投資による大赤字もあり散々な船出であった。まともになったのは恭作が山王工場に戻り自動車事業が合流し、総経理も二代目の長井君になってからだ。

第59話:鉄一商事と鉄鋼材料メーカー

日新製鋼呉の高炉と京都NO.1料亭いく田

元々自動車事業部に材料購入担当部署が無く、恭作も動弁機構システム技術が本業だったので鉄鋼材料購入にはあまり関わっていなかった。業務として記憶にあるのは2007〜8年位のリーマンショックの少し前に数年前の様な鉄供給問題が発生し、トヨタの購買から鉄一商事と共に呼び出しをくらった程度だ。ところが京棚部工場に移動になると何と鉄鋼関係業者(商社もメーカーも)との関係が深くて重要かがわかりかなり驚きだった。当時調達課長だった東門君に当初は訳もわからず鉄系メーカーに引きずりまわされたものだ。初めは鉄一商事と日新製鋼神戸製鋼JFEJFE商事がゴッチャになって誰がどこの人かわからなかった。流石にポスコジャパンだけは韓国人なので判りやすかったが。この時に自動車事業部の鉄鋼材料購入に対する軽視を痛感した。当時自動車では係長クラスしかまともに鉄系業者と話していなかったと思う。高炉や圧延工程見学も京棚部に移動になって初めて行った程だ。

そんな中で鉄鋼関係の方々との付き合いも当然増えて、何と酒好きの人が多いことかとれそれにもたまげた。飲み会を重ねる中で誰が何処の会社の人でどういうタイプかだんだん鮮明になっていった。そんな中で最も印象的だった人は鉄一商事の石井さん(この人とは個人的にも仲良くしていただいて、恭作のマンションの至近距離に高級クラブを発見したのもそこの人と飲んだ時だ。その話は後の回で書く予定だ),最も酒と料理が美味かったのはJFE商事が連れて行ってくれた京都岡崎のミシュラン星獲得割烹いく田(十四代、田酒などお気に入りの日本酒持ち込み可で料理も最高だったが残念ながら何年か前に閉店してしまった)、最も凄いゴルフ場は日新が連れて行ってくれたひろの、という具合にだ。酒とゴルフ好きでないとこの仕事難しいなと思い、どちらも好きで良かったなと痛感した。そういう意味でも東門君は適任だった訳だ。またポスコジャパンに連れて行ってもらったミナミのカラオケクラブは何と生オケでキー(音程)まで合わせてくれて生涯最も気持ちの良いカラオケだった。念の為言っておくが接待の内容で便宜をはかったことは一度も無い。

ポスコジャパンと言えば彼らの計らいで韓国工場の高炉等を見学させてもらうという話が来て、その時は橋本韓国の新工場も完成していて恭作自身も見ていなかったので渡りに船とばかり二つ返事でOKした。再三登場する朝立君も橋本韓国社長として現地で合流したのだが、ポスコ材使用量としては京棚部よりも橋本韓国の方が桁違いに大きいのに自動車からのあセッティングでポスコ見学した時より遥かにその時(京棚部セッティング)の待遇の方が良かったそうだ。釜山から1時間以上西に行った所にあるポスコ光陽(カンヤン)工場には最新の高炉と圧延工程があり、ラインも素晴らしかったが我々への待遇が超VIP(釜山からの送り迎えのクルマとか昼食に使用したVIP専用個室とか面談した人が工場長級だったとか)扱いで京棚部と山王との調達課の力量の違いを感じた。

第32話と52話で書いた朝立君の〇〇系のくそ真面目崩壊事件もこの時起きた。最終日の夜、〇〇系大好きなポスコジャパンの担当者が用意周到に仕込んでいたのだ。韓国では(ソウルは知らないが)タイや中国の様な女の子がいるキャバクラカラオケ的なものはあまり見かけず、カラオケ店等に女の子を呼ぶというシステムがメジャーらしい。一次会で普通に食事を楽しみ、同じビルのカラオケルームに移動して二次会を始めるとそこに女の子達がやって来るという感じだった。恭作も15年以上かかってついに韓国デビューとなった。

第58話:祇園接待と舞妓さん芸妓さん

舞妓さんにご機嫌なヤンさんとシエさんと恭作

役員になってから2年に一度、兄弟会社である橋本興業との懇親会で祇園の舞妓さん芸妓さんを呼んで大宴会をするという行事があった。何故2年に一回かと言うと橋本知恵院と橋本興業が一年ずつの周り持ち負担で、舞妓さん芸妓さんを呼ぶととんでも無く経費がかかるので橋本興業負担の年だけそうなるというパターンだ。経費に厳しい橋本知恵院負担の年はせいぜい高級ホテルのフルコース程度だったので舞妓さん芸妓さんに会うのは2年に一度程度だった。

ところが京棚部工場のトップになると接待などで結構頻繁に祇園に出入りする様になった。同じ地位の役員でも埼玉の片田舎にいるのとは大違いだと感じた。外注先からモノを買うにも、代理店にモノを卸すにもそれだけ利権が絡んでいるのかとちょっとビックリした。恭作は営業関係も責任外だし外注先に対しても極めてフェアにやっていたので誰かさんみたいに後でペナルティを食うという事も無かったが、個人的に仲の良い人が増えて利害関係無しでもお付き合いしていただいた。その中でも関西協力会の長老のお二人、前々話でも登場した滋賀さんと西丘さんには色々と遊びに連れて行ってもらった。その中でも少人数で舞妓さん芸妓さんを予約して和食のコースをいただき、2次会でカラオケを楽しむという超贅沢コースには東南アジアのビックリとはまた違った驚きで新鮮だった。(誤解の無い様に書いておくが基本的に舞妓さん芸妓さん遊びに〇〇系は無い)前任者の壱川さんが同行した時は「君でも接待に使って良いんだからか予約や会計の仕方を覚えておきなさい。基本一見さんは予約もできないから」と言われてお茶屋のご主人(要するにけ舞妓さん芸妓さん達を仕切っているマネージャー)を紹介してもらった。会計は後日渡しておいた名刺の会社住所に請求書が送られて来るというシステムだった。その場でお金の話をするのは無粋という意味だろう。

素直な恭作は数ヶ月後には例のヤンさんとそのスタッフのシエさんと山部君を連れて舞妓さん芸妓さんを呼んで接待した。流石に大金持ちのヤンさんも祇園にはコネが無く初めての経験だったみたいで感動してくれた。我々4人に対して舞妓さん1人芸妓さん1人の計2人ついて和食のコースと2次会のカラオケというパターンだった。数週間後請求書が会社に届き、その額にもビックリだったが良い経験だった。2人分の花代(舞妓さん芸妓さんを呼んで時間を拘束した事による料金;この場合5時間×2=10時間分)が我々4人分の飲食代の倍以上だったように記憶している。それでも修行中という身分である舞妓さんには一銭も入らないらしい。

第57話:AKB48じゃなくてAKP80

AKB48とAKP80

中国進出した天津工場で製造するのは主にコンベヤチェーンだが、その次に位置するのが立体駐車場用吊り下げチェーンだ。吊り下げるだけならフォークリフトに付いている様なリーフチェーン(リンクプレートとピンだけでスプロケットに噛み合わない)で良いのだが、スプロケットで巻き上げるので一般のローラーチェーンを使っていた。しかし価格競争が厳しくVAを迫られていて中国で中国材をつかって作るという案がほぼ決まっていた。しかしそれでも品質は良いけど高い橋本知恵院製ではコストが下がり切らず苦慮していた。サイレントチェーンに長く携わっていた恭作は開発会議で「ならばブシュを廃止してサイレントチェーンの様にリンクプレートとピンが摺動する様にしてローラをその分厚くして見た目普通のローラチェーンと同じにすれば噛み合いもOKだし部品点数が減って安くなるじゃん」と関東弁でかました。これに後に技術部長になる追高君が大賛成してわずか数週間で試作品を作って試験してくれた。伸び耐久性は重要でなく直線疲労強度だけ満足すれば良いと言う思惑は見事にハマり天津工場で量産する事がすぐに決まった。言い出しっぺが恭作なので特許の名前に恭作の名前を入れさせてくれと言われたが、流石に役員なので丁重にお断りした。既に顧問になっていた産業チェーン技術のドン兼平(元専務)さんからは「そんなのチェーンじゃ無い」と酷評されたが恭作は吊り下げ専用チェーンとして押し切った。(多分恭作がいなかったら京棚部の文化としてこのチェーンはお蔵入りしていただろう。偉い人には絶対服従文化があったから)

80番ローラーチェーンの駐車場P版で開発コードはP8だったが何か名前をつけなきゃという事でダイゴばりに英文字3つ並べが得意な製造部長福打君がAKB48をもじってAKP80はどうだろうと(冗談半分だった?)提案してくれた。これに恭作はある理由で大賛成して即決定した。トップ層の工場移転の金銭的失敗で疲弊していたこの工場にはこういう自由で愉快な雰囲気作りが必要なんだなあと思っていたからだ。天津への投資を初め京棚部工場内の設備投資もそういう理由でどんどん進めた。

天津工場完成後AKP80は無事量産化されたが、残念だったのは営業部隊がタコだった事だ。市場調査と獲得でき得るシェア予想が大幅に間違っていたのだ。(これはコンベヤチェーンも同じだ)当時製造と営業は完全に分離していて営業は恭作の管理範囲外で出された数字を信用するしかないシステムだった。その為に過剰な設備投資をしてしまい、設備の償却費が重くのしかかり中々利益が出なかった。でもその尻拭いをするのは製造部隊で単身赴任が終わって自動車事業部に戻ってからも董事長として何年もその尻拭いの業務を続けた。(後に天津工場の連続調質炉2本を自動車用に改造したのもプランジャーの冷間鍛造をAKP80ブシュ用鍛造機を使って天津工場で生産させたのもそういう理由からだ)

第56話: 協力会との慰安旅行(施設見学会)

宇部興産の採掘場と専用道路と下関のランちゃん

関西の協力会は活動がかなり盛んで、その中でも毎年秋に行われる施設見学会は1番のビッグイベントだ。恭作の単身赴任中の3年間は山口の宇部セメント、宮崎の旭化成、広島のミツトヨに行った。見学会の夜は大宴会、翌日はゴルフコンペ又は観光とほぼ慰安旅行の様なもので協力会社さんも参加する橋本知恵院のメンバーも楽しみにしている。

特に転勤して初めての施設見学会だっただけに宇部興産の回は印象的だ。写真にある様に石灰石採掘場は絵本で良く出てくる’働くクルマ’のリアル版だし、そこに行くまでに観光バスで通った高速道路が宇部専用道路(写真の様なダブルトレーラーが通る為)だった等、日本とは思えないスケールでたまげた。

たまげたと言えば協力会の長老でドンの滋賀さんが見学会の締めの恭作プレゼン中、携帯電話で席も外さず大声で誰かと話していた事だ。流石に怒鳴るのは我慢したが何という傍若無人ぶりだとたまげた。しかしその夜の飲み会からそのドンを初め協力会の面々と意気投合したのでその事件を含めて良い記憶として残っている。その2次会で行った下関のスナックにいたホステスさんがキャンディーズのランちゃんに良く似ていた事も印象的だ。(写真参照,断っておくが日本の普通のスナックなのでその後別に何もなかった)

お礼にという訳では無いが2年目は自動車時代から仲良くしていただいている旭化成さんの延岡工場を施設見学会にセッティングさせていただいた。この時に使うゴルフ場も有名なフェニックスCCをアレンジしたのでそれも含めて好評だった。3年目のミツトヨも良かったが翌日のゴルフが大雨で途中中止としたのも今になってみれば良い思い出だ。これらを無事仕切る東門君や協力会の役員さん達の素晴らしさも関東協力会には無いものだ。

こんな感じでこの頃から長老の滋賀さんを初め協力会の方々とはかなり仲良くしていただいて、自動車事業部に帰ってからも協力会の重鎮の方々が代替わりしてからもずっとお付き合いさせていただいた。昨年などは施設見学会が山王工場だったので、すでに役員を引退していたにもかかわらず夜の大宴会と翌日のゴルフにご招待頂いたほどだ。感謝感謝。