嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第57話:AKB48じゃなくてAKP80

AKB48とAKP80

中国進出した天津工場で製造するのは主にコンベヤチェーンだが、その次に位置するのが立体駐車場用吊り下げチェーンだ。吊り下げるだけならフォークリフトに付いている様なリーフチェーン(リンクプレートとピンだけでスプロケットに噛み合わない)で良いのだが、スプロケットで巻き上げるので一般のローラーチェーンを使っていた。しかし価格競争が厳しくVAを迫られていて中国で中国材をつかって作るという案がほぼ決まっていた。しかしそれでも品質は良いけど高い橋本知恵院製ではコストが下がり切らず苦慮していた。サイレントチェーンに長く携わっていた恭作は開発会議で「ならばブシュを廃止してサイレントチェーンの様にリンクプレートとピンが摺動する様にしてローラをその分厚くして見た目普通のローラチェーンと同じにすれば噛み合いもOKだし部品点数が減って安くなるじゃん」と関東弁でかました。これに後に技術部長になる追高君が大賛成してわずか数週間で試作品を作って試験してくれた。伸び耐久性は重要でなく直線疲労強度だけ満足すれば良いと言う思惑は見事にハマり天津工場で量産する事がすぐに決まった。言い出しっぺが恭作なので特許の名前に恭作の名前を入れさせてくれと言われたが、流石に役員なので丁重にお断りした。既に顧問になっていた産業チェーン技術のドン兼平(元専務)さんからは「そんなのチェーンじゃ無い」と酷評されたが恭作は吊り下げ専用チェーンとして押し切った。(多分恭作がいなかったら京棚部の文化としてこのチェーンはお蔵入りしていただろう。偉い人には絶対服従文化があったから)

80番ローラーチェーンの駐車場P版で開発コードはP8だったが何か名前をつけなきゃという事でダイゴばりに英文字3つ並べが得意な製造部長福打君がAKB48をもじってAKP80はどうだろうと(冗談半分だった?)提案してくれた。これに恭作はある理由で大賛成して即決定した。トップ層の工場移転の金銭的失敗で疲弊していたこの工場にはこういう自由で愉快な雰囲気作りが必要なんだなあと思っていたからだ。天津への投資を初め京棚部工場内の設備投資もそういう理由でどんどん進めた。

天津工場完成後AKP80は無事量産化されたが、残念だったのは営業部隊がタコだった事だ。市場調査と獲得でき得るシェア予想が大幅に間違っていたのだ。(これはコンベヤチェーンも同じだ)当時製造と営業は完全に分離していて営業は恭作の管理範囲外で出された数字を信用するしかないシステムだった。その為に過剰な設備投資をしてしまい、設備の償却費が重くのしかかり中々利益が出なかった。でもその尻拭いをするのは製造部隊で単身赴任が終わって自動車事業部に戻ってからも董事長として何年もその尻拭いの業務を続けた。(後に天津工場の連続調質炉2本を自動車用に改造したのもプランジャーの冷間鍛造をAKP80ブシュ用鍛造機を使って天津工場で生産させたのもそういう理由からだ)