嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第8話:事業部暗黒時代からの大逆転神風-その1:欧州製品のベンチマーク

G67チェーン搭載の初期ベンツ190E(2.0L)


1980年代初頭鉄製動弁機構の国産エンジン開発がゼロになりその設計開発担当者も4人になってしまった事は以前のブログに書いたが、その他にも事業部はリストラと節約の嵐だった。リカバリー8と言う標語は今でも記憶にあり、つまり月売り上げ8億円までなんとか復活させようという意味だ。(グローバルで考えれば月60億円程度の売上がある現在から考えたら1/8位しか無かったのだ。)残業規制という名のサービス残業横行、新事業である一般ベルト(ゴム製動弁機構だけでは業界第4位=最下位のシェアでは食っていけず)拡販に現場や事務職から大量の営業駐在員を出したり(当時実験のトップだった古桜さん、焼結現場の中核だった宿屋さん、調達の中核だった関捻さんなどが記憶に残っている)していたが、フルモデルチェンジ車以外はまだ鉄製動弁機構を使っていたのである程度の生産はあり赤字にはなっていなかった。そのせいもあり会社の事情には無頓着で寮生活が楽しくしょうがなかった20代の恭作はあまり不安を感じていなかったし、会社をやめようとも思わなかった。ただその頃もずっと赤字を垂れ流していた隣の事業部の寮生の羽振りの良さにはかなり腹が立っていた。(赤字なのに規制も無く残業し放題で給料も高く自分達は滅多に出入り出来ない山王市一番の寿司屋の常連になっていた程だ)

でも仕事上も明るい兆しが見え始めていた。欧州はゴム式動弁機構が日本より先行していたがベンツ、BMW、サーブの3社は鉄式動弁機構しか使わない(耐久性の問題:高級車は数十万km走るのが当たり前で10万km交換のゴム製動弁機構はそぐわなかった)からだ。そう言えば日本でもタクシー用LPGエンジンはずっと鉄製動弁機構だった。そこで当時欧州動弁チェーンを独占していたiwis社のG67チェーンをベンチマークすることになり、パクリで06Eチェーンを完成(D67もその後パクったがそれが06D)させた。これがこの後吹き荒れる神風に乗れた一番目の要因であった。-続く-