嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第18話:チェーン化大逆転劇~海外カーメーカー編2(北米-1)

1990年発売の初代サターン



SAABの開発が一段落した1985~6年頃、いきなりUS橋元を通してアメリGMのサターンプロジェクト(1900ccの当時北米で人気だったカローラやサニー(=セントラ)に対抗するクルマをエンジンから開発していこうという日本車迎撃のプロジェクト)チームから鉄製動弁機構システムの引き合いが来た。まだトラッドサニーは発売前だったしカローラはベルト式動弁機構だったので、おそらくベンツ190E(1982年に発売された小ベンツと呼ばれていた2Lエンジンの5ナンバー車)をベンチマークしたのだろう。チェーンはズバリ06EでSAABや日産向けに量産開始する所はだったのでハマった。欧州チェーンのパクリがここでも大きな武器になった。開発初期はバックラッシュ無しラチェット式テンショナーとゴムシューのレバー、ガイドという旧タイプの設計だったが、話はトントン拍子で進みノーススターというキャデラック用V8エンジンの話まで飛び込んで来た。しかし設計よりも大きな問題は当時工場すら無かったアメリカでの現地生産だった。(GMの受注に対する条件は現地生産がMUST)

一方、大阪本社工場で生産している一般産業向けチェーンのアメリ現地生産の話しは先行して進んでいて、1986~88年にかけてアメリカのチェーンメーカーを買収していった。その内の1つがマサチューセッツ州にあるボリヨーク工場だ。ここを自動車事業部も使うことで更に話しは現実化していった。前述のようにこういう案件は海外事業部主導だったので、シカゴのUS橋元本社に駐在していた丘田Cさんが当面GMとのとコミュニケーションい担当になってくれて、これが北米自動車事業の成功の一因だった。丘田Cさん(当時海外事業部には3人の丘田がいて年の順にABCと呼ばれていた)は橋元知恵院の歴史の中で帰国子女を除いて英語能力がトップだったと思う。(もしTOEICを受けていたら満点だっただろう)丘田Cさんは程なく自動車に転籍になり山王工場での実習を経てボリヨーク駐在員となった。この丘田さんの人事移動の英断は素晴らしかったし、ようやくこの頃から橋元知恵院全体が自動車事業の重要性を認識し始めたんだと思う。

この様に話がどんどん進む中1987年にはデトロイト地域のトロイという街に駐在員事務所を設ける事になった。多少の移動はあったものの現在でもその辺りにデトロイト事務所は存在する。当初は海外事業部から派遣された小宮崎さん(一般産業営業畑で後に自動車の事業部長まで上り詰める)と恭作の直属の上司だった南折さん(焼結製造課長出身で英語が多少出来るので抜擢された。設計は経験が無かったが)の2人で運営し始めたが、技術力も無く英語能力も日本人だけでは完全に不足していて、営業面では前述の丘田Cさんのヘルプを仰ぐ事になった。技術面では南折さんがGM技術者の質問をその日の夕方日本にFAXし、時差をうまく利用して朝それを日本で恭作が受け取り夕方FAXで返す。それを南折さんが翌朝受け取ってその日に回答に行くというパターンで、そこそこのレスポンスの評価を受けていた。製造面ではボリヨーク工場の買収も1988年には完了し、ここから怒涛のUS現地生産化が始まった。-続く-