嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第12話:事業部暗黒時代からの大逆転神風-その5

日産チェーン化回帰第一号トラッドサニー1987モデル

初めての海外出張後から大きな変化が訪れた。その出張の為恭作は3~4ヶ月毎に欧州出張する事になったり(2回目からは1人で),一方で日産では1984年頃からベルト耐久性不安からチェーンに全てのエンジンを戻す計画が極秘に始まったりで超多忙になって行った。その前から設計の人数は6人くらいにはなっていたが全然足りず恭作の1番弟子朝立君以来の新人(2番弟子)熊蔵君が配属となった。朝立君は出張のお土産であるSAABとドイツフォードのプロジェクトが量産化しそうなので欧州駐在員候補となりその準備の為大阪の本社海外事業部に転勤になった。日産の動弁機構一大改革で恭作の師匠の荻野谷さんは日産に設計駐在(ゴム化で日産には鉄製動弁機構を設計出来る人間がいなくなっていた) したり、後に課長となる村乃さんが営業から復帰したり、熊蔵君以降も橋元君、Mac砂糖君、矢嶋君、中間採用で井之上浩三君、筒美さん、黒旗君、一般営業から復帰した古桜さんなど錚々たるメンバーが一気に鉄製動弁機構設計に流れ込んできたりして技術部の様子は一気に逆転していった。欧州と日産以外にもマツダから新V6エンジンを鉄製動弁でやりたいという話も出て来て、恭作は二輪と欧州と日産以外の国産メーカー担当リーダー、村乃さんは日産系担当リーダーと、2部署体制になった。その少し後,高速道路JAF出動要因問題(キー封じ込めとタイヤパンクに次いでタイミングベルト破損が第3位になった)で運輸省が日産以外のカーメーカーに対して指導を行い、神風が台風並みに吹き荒れはじめた。(トヨタを含む全カーメーカーが鉄製動弁機構に戻っていく動きとなった)増えたといっても設計開発の人数は全く足りず、師匠の荻野谷さんとは’札束が落ちているのに拾う手が足りないですね’と愚痴っていた。この時に会社の役員クラスが少しでも自動車動弁ビジネスに理解があったら(代々の自動車事業部長は自動車ビジネスなど全く知らないで役員になった人達のキャリアパスだけの為に2~3年の任期で関西から代わる代わる来ていた。自動車生え抜きの役員はその20年弱後の恭作が初めてという有様だった)その後の橋本知恵院の会社規模は倍になっていたかもしれない。その理由は次話で。