嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第13話:橋本知恵院は急成長チャンス逃した?

サイレントチェーン使用のCB750F

二輪エンジンの動弁機構はちょうど恭作が入社した1978年頃一大変革していた。4輪の様にゴムベルトは使わなかったが、ブシュチェーンからサイレントチェーンに変わっていったのだ。恭作もバイクに乗っていたので肌と耳で感じていたが、エンジン音が全然違うのだ。多分最初のサイレントチェーン使用メジャーバイクはバリバリ伝説で有名なCB750Fだったと思う。恭作は前述の通り二輪動弁機構を入社以来担当していたのでブシュチェーン(ローラチェーン)からサイレントチェーンへの流れは実感していた。当時二輪各社へは橋本ボールスという橋本知恵院のグループ会社がサイレントチェーンを製造、供給しており営業は橋本知恵院共通だった。ボールスのサイレントチェーン設計者がチェーンを担当、恭作がテンショナとガイドレバー類を担当という分担で良く浜松のヤマハやスズキに行ったものだ。ちなみに営業は浜松の営業所が共通で担当していた。サイレントチェーンの唯一の欠点は伸び耐久性が劣る事で二輪の世界ではそれは問題にならなかったが、当時の技術では4輪自動車に使えるレベルでは無かった。(事実トヨタでこの頃味見という事で総合パターン耐久テストにかけたが伸び基準には全く届かなかった)逆に伸び耐久性さえ改善すれば動弁機構はまた鉄製になるんじゃないかと恭作は思っていた。

そんな中、橋本知恵院は1984年にサイレントチェーンビジネスを手放してしまったのだ。橋本ボールスはその頃サイレントチェーンと一般産業用減速機等の2種類を生業としていたが、前者を放棄して後者を取り、橋本ボールスは橋本絵馬損という会社に変わった。何故サイレントチェーンを放棄したのかの真相はわからないが、1984年に放棄したという事はその1~2年前から話が進んでいたはずであり、その頃は全ての自動車用エンジンの動弁機構はゴムベルト系になっていくというのが定説だったので橋本知恵院の上層部(役員)は後者を取ったんだろうと想像される。少なくとも恭作や上司の太門さんや荻野谷さんはそう思っていなかったのだが、部課長レベルの意見が上に届く様な会社では無かった。(前述の様に自動車担当役員は出世のための腰掛けで数年しか居ない人達ばかりだった)

そしてサイレントチェーンはバルグワーナー社の独占となり、橋本ボルスから分離したサイレントチェーンの製造会社はバルグワーナーJapanとなった。最終的には世界の鉄製動弁機構は橋本知恵院とバルグワーナーがそれぞれ35%程度とのシェアを持ち1~2位を争う事になったのだが、もしこの時に橋本知恵院がサイレントチェーンをと取っていれば世界シェア70%以上のとんでもない独占企業になっていたかもしれない。繰り返すが真相について今ご存命の人達は誰も知らない。