嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第17話:度重なるV6エンジンの失敗とそこから生まれたテンショナ特許

マツダのチェーン回帰第一号プロシード

欧州プロジェクトであった独フォードV6失敗の件は前に書いたが、その後同じ理由で立て続けに2つのV6エンジンを失注している。その1つがマツダV6だ。1989年に発売されたユーノス500(1800cc V6という珍しいエンジン)用V6動弁機構プロジェクトで当初(1986年頃)はチェーンで進んでいた。スペースが無かったせいもあるが当時鉄製動弁機構の設計に関してはイケイケだった恭作はスズキ2輪V2エンジンで成功した機構を適用した。これが独フォードとは全く同じパターンで大問題となり恭作はマツダ設計(広島)に1ヶ月設計駐在する事になった。仕事は別としてこの広島駐在は楽しかった。マツダの設計の人達は良い人ばかりで仲良くなりその後の人脈も出来たし、泊まっていたホテルが広島随一の繁華街にあって(ホテル28という名前で一泊2800円の部屋があるのが売りだがトイレも無いので3500円の部屋にそ泊まっていた)酒好きの恭作にはたまらなかった。結局失敗してそのエンジンはベルトで量産化され、この失敗でせっかくのチェーン化の流れをマツダでは遅らせてしまったが、この駐在時にいただいたプロジェクトG6(マツダプロシード2.6L:ピックアップトラック及びSUVの)は4気筒だったので大問題は無く1989年に無事量産化された。

そう言えばこのマツダの案件の少し前にスズキの二輪GSX750/1100Rのプロジェクトでもラチェットのロックで大問題を起こしたし、この後登場するGMプロジェクト(サターン4気筒、ノーススターV8)の陰にADC-V6というプロジェクトも存在し、これまた同じ理由(ノンバックラッシュラチェットのロックと張りすぎ問題)で没となった。しかしこのADC-V6の担当者が良い人で、恭作が北米出張中にGMの実験室内にてアクリル版で可視化した実動エンジンでのテンショナロックの瞬間を見せてくれた。この光景があまりに鮮烈で目に焼き付いてしまい、帰国後行ったラチェットのバックラッシュ化の発明につながった。このバックラッシュラチェット式テンショナはサターンを皮切りにそれ以降日産のリザーバー式以外のテンショナーにほぼ全てに採用になった。会社からもらっていたささやかな率の特許料も上限値まで行きその使用期間も長かったので累計はかなりの額になった。役員になってからの話しだが無料焼肉食べ放題パーティーを数回開催して多少はスタッフの人達に還元したが•••