嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第15話:チェーン化大逆転劇~海外カーメーカー編1(欧州)

昭和の英会話教材セット

前にも書いた通り国内のチェーン化は日産が1984年頃から開発を始めたと思うが、海外メーカー(特に欧州)はベルト化しなかった所があり、そのうちの1つが恭作はじめての海外出張編で登場したSAABだ。1983年が初出張でそこから年に数回ペースでスウェーデンまで設計打ち合わせに行っていた。2000cc DOHCにチェーンとテンショナーを納め始めたのが1986年頃,2300ccにバランサーシステムを納め始めたのが1989年頃で、それまではやたらと欧州出張が多かった。ちょうど欧州出張真っ盛りの頃に欧州駐在していたのが後に橋本タイの初代社長を務めた小宮間さんだ。その頃海外駐在員は各事業部からでなく本社にあった海外事業部から出向していて、小宮間さんの出身の一般産業営業と共用だった。(ちなみにその次の駐在員候補が朝立君で前述の通り海外事業部に転勤になっていたのだが、SAABと同時に進めていたドイツフォードの話が量産直前でドタキャンになり朝立君の欧州転勤も無くなり、その後浮上した米GMのサターン、ノーススタープロジェクトでアメリカ駐在が決まり山王の自動車事業部に出戻りしたのだ。その話は次話で。)

小宮間さんはヤンチャな伝説を数多く持つが(自動車関係で有名なのはタイの社長時代、当時の事業部長3Fの1人富士原さんと大喧嘩をした事だ。怒った富士原さんは出張半ばなのにタイからすぐ帰国すると言い出し大騒ぎになったらしい。3Fとはこのブログで度々登場した蓋見さんとまだ登場していない振河さんと合わせて変わり者3人のイニシャルがFという意味)、恭作との初対面の日の夜、オランダのバーでかなり言い合いになった。どちらもすぐカッとするタイプだから何かで言い争いになったんだろうけど、その夜の議論がきっかけで2人はとても仲の良い関係になったのだ。似た者同士だったのかもしれない。また、オランダでの滞在中自宅に招かれて小宮間さんの握ったお寿司をご馳走になり感動した。’駐在員ってカッコいい!英語がペラペラで仕事も出来て寿司まで握れるんだー!’と恭作は憧れてその後魚の三枚おろしと寿司の握り方を研究した程だ。実際その10年後くらいにアメリカ駐在した時に非常に役に立った。英会話も流石にその頃TOEIC400強だった恭作のレベルでは設計打合せに支障があった(海外事業部の駐在員か間に入ってくれるのだが、もどかしかった)ので頑張ろうと思い、詐欺まがいの訪問販売英会話教材セットを3~40万円(クルマのローンもあったので勿論月賦)に手を出してしまった。写真そのものではないがそんな感じで特殊カセットプレーヤー(1フレーズずつリピートが出来たり自分の声を録音できたりする機能が搭載)か付いてきて中々良かった。結果的にはこの教材セットをやり切った(余りにも高額でもったいないので)ことでTOEICは100点以上上がり、その後のグローバル化と出世にに役立ったのだが。ちなみに橋本知恵院山王工場のかなりの人が同じ手口にハマり、当時の事業部長まで購入したらしい。その事業部長は結局英語を話せなかったのだが•••

このバブル期に欧州プロジェクトで独フォードV6は失敗したが(技術的にはV6エンジン特有の振動による過剰負荷でシュー異常摩耗が原因だが、今の技術レベルならバックラッシュテンショナーとLP端面シェービングと46ナイロンでクリアできたと思う)、SAABの3機種B202(2L DOHC),B232(2.3LDOHC)とその改良版B234は動弁機構が06E,バランサーが04M(44C)を使ったシステムで無事に立ち上がった。

この頃は日産担当設計グループも大忙し(1987年のトラッドサニーGA15を皮切りにそのDOHC化のGAD,2L超のKAとそのDOHCのKAD,1.8~2LのSR,V8のVH45,VH41,V6のVEと6~7年で8機種立ち上がった)で、荻野谷さん、古桜さん、村乃さん達がリーダーで、その後事業部長になった井乃上浩三君、その後タイに長く駐在した筒美さん、その後韓国に行って社長になった橋元君などの功績だ。チェーンはこの頃は日産も欧州プロジェクトで開発した06Eであり共通だったが、テンショナーは海外系がバックラッシュラチェット式、日産系はSR以外リザーバータンク式と2方向に別れていったのだ。

(この頃、令和の役員達である宮字君はベルト担当、中窪君はベルト用オートテンショナー担当、砂糖功君に至っては一般産業営業→海外事業部だった。富士原さんも技術部長になるまではベルト一筋だった)