嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第24話:あの頃のみんな(1990年代中盤)

Richと欧州駐在の内打君を仕事で訪ねた



そう言えばこの頃、その後自動車で活躍した人は何をしてたんだろう?

タイの社長だった小宮山さん、林さんはそれぞれ欧州、カナダ+シンガポール駐在を経て海外事業部にいた。自動車統括にまでなった砂糖功君も一般産業での欧州駐在後海外事業部、上海総経理までなった鳥薗君は精機事業部駐在でシカゴにいていずれも自動車とは関係ない人達だった。異色の経歴を持ち中間採用で来た内打君(日産系ディーラーの整備士→海外青年協力隊でケニア派遣:これで英語がペラペラに:その帰国後橋本知恵院に入社)は自動車初の欧州駐在していた。宮字君はまだベルト、中窪君もまだベルト用オートテンショナーにどっぷりハマっていた。タイでも活躍した四ツ橋君は恭作の少し後でテンショナー現地化の為ボリヨーク駐在してた。朝立君は恭作と一年半駐在がラップしたが、山王工場に帰った。事業部長まで行った井之上君や韓国社長の橋元君は設計担当で日産に振り回されていた頃だ。同じ日産担当だった筒美さんはそろそろ豊田営業所に移って行った頃だと思う。熊蔵君はしっかり恭作の後を継いでトヨタをチェーン化に導いていたし、遅船君は生産技術から恭作の次の駐在候補としててチェーン動弁技術に移ってきた。(製造現地化としては永友さん、芳賀君もこの頃ボリヨーク駐在だった)

そう考えると本来のチェーン系動弁技術にずっと携わってきた人間は以外と少なく、ここに登場した人で言うと朝立、井之上、橋元、筒美、熊蔵(敬称略)辺りだ。砂糖功、林、鳥薗、小宮崎(敬称略)は事業部内にすらいなかった。

話は変わるが、このころの海外事業部系駐在員は錚々たるメンバーだった。最終専務まで行った高蔵さん、大宮崎さん、小宮崎さん、山元哲さんは北米駐在、社長になった実本さんは欧州とシンガポール駐在、時代はもっと後だがシンガポール繋がりで言えば同じく社長になった大腹さん、現役員の河上君もそうだ。しかし自動車事業部の急速な海外進出化を受けて海外事業部のメンバーは各事業部に吸収されていき、海外事業部自身は消滅する事になった。