嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第19話:チェーン化大逆転劇~海外カーメーカー編3(北米-2)

世界初05Eチェーン動弁システム採用のキャデラック(ノーススター)

サターン、ノーススターの量産化が決まり、設計面では仕様の煮詰め、製造面ではボリヨーク工場でのチェーンの製造現地化が準備に大忙しとなった。一方で日産のチェーン化も真っ盛りの時期で、設計面では日産と日産以外が別のグループになっていたので何とかなったが、製造、生産技術面は大変だったと思う。

恭作もしょっちゅうアメリカ出張していたし、アメリカ(GM)からもしょっちゅう来客があった。朝立君もアメリカ駐在が内定し、海外事業部からや山王工場に出戻ってきた。この頃の1番のトピックスはサターンやノーススタープロジェクトのGM担当者が来る度に’村さ来‘という居酒屋チェーン店に彼らを連れて行った事だ。その頃の偉いさん達は料亭的な所に連れて行っていたのだろうけど、若手(恭作や朝立君は30過ぎ)は居酒屋に連れて行った。これが当時のアメリカ人には大受けで(今もそういう外人を居酒屋似連れて行くというYOUTUBEチャンネルが人気らしいが)彼らが来る度に’村さ来’’に言っていた様な気がする。

仕事上はちょうどその頃(サターン量産化が1990年なのでちょうどその頃)05Eチエーンを自主的に開発していた時で、ノーススターの開発責任者だったBob Jacquasに太門さんが出来たてほやほやの05E初回サンプルを見せた途端に彼(Bob)は一目惚れしてそれまで順調に06Eチェーンで開発していたものをその時から05Eチェーンでの開発に変更した。幸いにも偶然チェーンとスプロケット以外は大きな設計変更がなくて済んで、これまた順調に1993年に量産化された。勿論その後ほぼ全トヨタ4気筒車に搭載された05Eシリーズの世界第一号適用車種がノーススター(キャデラック)である。 一方でボリヨーク工場は1990年のサターン量産開始に向けて1989年頃から、製造生産技術の大ボス松元さんをはじめとしてデトロイト事務所から南折さん、前述の丘田Cさん、品証から牛久保さん、(一年遅れてRichPaxonの採用),その後には朝立君、芳賀君、永友さんなど次々に駐在していった。-続く-