嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第69話:天津自動車工場建設

天津自動車工場 2017年4年7月10月そして翌年4月の様子

恭作が自動車に戻った2014年4月に天津反対派の冨士原が自動車事業部からいなくなったのでいきなり天津自動車工場建設がスタートした。第57話でも少し触れたが、天津第一工場(一般産業用)は営業が予測した売上がいいかげんで全く実現せず過剰投資で大赤字だった。自動車に帰任しても引き続き董事長として天津工場の最高責任者(一般産業ビジネスにも責任があった)だった恭作にとって天津に自動車生産工場を建てるのは起死回生の手段だったので気合いを入れていた。当初恭作の意見は第一工場(一般産業用)の隣の空地に自動車工場を建てるというものだったが、その案は尾左社長に却下され新しい土地を探す事になった。公式の理由は一般産業も自動車もこれから拡大基調にあるので余裕を持った土地の確保をしようというものだったが、彼の本音は別の所にありその内容は彼自身から聞いた。その本音とは山王工場の自動車事業部とコンベヤ事業部の同居の問題(利益の出ない事業部が利益の出る事業部と同居すると人が利益が出ている方に流出する)にあり、自動車の人間からするとさほど問題に感じ無いのだが、コンベヤ族の尾左社長にとっては大問題だったのだ。(この辺りの詳細は裏の裏ブログに記載している)最終的にその第一工場脇の空地に三つ目の工場=自動車として二つ目の工場が建設されたのだから、その判断は何の意味もなかったのだが。

とにかく新しい土地を近隣で探したが空いていたのは第一工場から約3km程離れた所の原野だった。(添付写真参照)もっと近場に空地がいっぱいある様に見えるのだが全て売約済みらしい。とにかく第54話に登場した地元のドンのヤンさんが探してくれてもそこしか無いのだから納得してすぐ契約、着工となった。冬が来る前にか外装は終わらせる必要があった(冬の寒さは零下10°以下になるので)ので写真の通り急ピッチで建設が進んだ。第一工場建設時の教訓でこの自動車工場建設には山王工場の山上君を現場監督的なポジションに置いたが、彼はそういう事に才能があるのか見事にやり切った。あれならすぐにでも大手ゼネコンに転職できると思った。着工から完成まで一年弱と第一工場建設時同様相変わらず凄いスピードだった。橋本天津の董事長である恭作は建設の管理を任された山上君程では無いがしょっちゅう天津に行っていた。この年から上海の工場の董事長も兼任する様になり、天津-上海というセットで出張していた。第55話に登場したヒトとの仲も絶好調で上海-天津の移動に空白の1日等を作って会ったりしていた。この頃彼女に恭作の末娘と同い年の息子がいると聞かされちょっとビックリしたが、日本から持っていく土産も息子さん用のモノだったりした。上海は上海で色々あったのだがその様子はまた後の回で書こうと思っている。

第68話:パワードライブの拡大とマグナ

マグナお気に入りの池袋の寿司屋

ポルシェカイエン,AudiQ7,VWトワレグの3兄弟

かなり後で聞いた話だが、冨士原が恭作を京棚部に追い出した頃、彼は利益が中々出ないパワードライブチェーンビジネスを辞めてしまいたかったらしい。しかし恭作はマグナとは契約こそしていないが戦略的パートナー(トランスファー機構としてマグナとしてはライバル会社のバルグワーナーからチェーンを買いたく無いし世界で他に橋本知恵院しか作れない)として友好的にやって行こうと実本社長ご存命の頃京都でマグナの営業責任者と実本社長を引き合わせたこともある位パワードライブ推進派だった。(この時、実は祇園で舞妓さん、芸妓さんを呼んでお座敷天ぷらを予約していたのだが実本社長のNGを喰らい実現せず京都のホテル内の天ぷら屋にで普通に会食する事になってしまった。恭作にとって本来この時が舞妓さん芸妓さん遊びのデビューだった筈なのに。そんな事よりあれだけ夜遊び好きの実本さんがNGを出すとはよっぽど精神的に病んでいたんだろう。詳しくは裏の裏ブログで)その後マグナの営業上層部とは良い関係を継続していて、池袋の西武デパートの8Fにある築地の寿司屋(写真参照:銀座の高級店レベルの味で価格はその割にリーズナブル)で毎年の様に接待していた。

幸い恭作が山王工場に帰任した頃、VW/AUDI/ポルシェの三兄弟SUVトランスファーケースチェーン(ピッチ11mm位)をマグナから受注量産出来、BMW向けと合わせてパワードライブチェーンビジネスは自動車の大きな柱となった。しかし許せないのは冨士原が辞めようとしていたパワードライブビジネスがうまく行きだした後、恭作が京棚部に行って不在の時期に’恭作がパワードライブチェーンを辞めようとしていた’と話がすり替わっていた事だ。裏の裏ブログで暴露中だが恭作の知らない所でこれに関しても恭作を蹴落とそうとしていた輩が存在していた事になる。

今や欧州マグナだけで無く北米マグナからも引き合いや受注を多数いただいていて、第38話に書いた様に1995年位から北米SUVトランスファーケースチェーンに関わっていた恭作にとってそれが実現した事は嬉しい限りである。EVのEアスクルを追うのも良いが、それよりも既存ビジネスを伸ばした方がパワードライブビジネスにとってここ10~20年はよっぽど良いんじゃないかと思う。これはタイミングチェーンシステムにも言える事だ。

第67話:自動車内組織改変

2014年に開業したUSJハリーポッターエリア

山王工場に帰任すると確かに雰囲気が暗かった。元々事業部長や企画管理がいた本館3階事務所は雰囲気が明るくなかったが、更に輪をかけて暗くなっていた。「京棚部みたいにまたここからやり直しかよー」と思ったが古巣なので以外と早く何とかなるだろうと気合を入れた。まずは3統括組織を何とかしなくちゃと、その解体と横のコミュニケーションの改善に取り組んだ。

冨士原体制ではイノベーションサイドと何とかサイドとか言って、(実は今でも恭作はこの標語が何を言っているのか判らない)営業とか製品技術/開発系と製造/管理/品証系を分けていたらしい。しかしこの人はベルトのゴム材料開発位しか実績が無く、事業部長になっても部屋で読書に明け暮れ自らの手を汚す事無く3統括だけをコントロールするという仕事の仕方なのだなと改めて軽蔑した。それに黙って従う奴らも奴らだが従わないと冷や飯を食わされるのだからしゃあないか。前話でも触れたがそんなことしたら横のコミュニケーションが取れなくて失速するのは当たり前だ。墜落しかけていた自動車の機体を一気に持ち上げるべく、その標語は禁句にすると同時になるべく縦割り組織を解体した。具体的には営業・技術は一括して恭作が見て製造は宮字君に任せながらそれらを融合していく組織を作った。これが後にPM部という部に発展させた素である。

人事的にも反冨士原派で冷や飯を食わされていた内打君や朝立君を中心に活用し、とにかく横のつながりが大切だという雰囲気に持って行った。逆に砂糖功は海外に集中させ少し退けたりした。ちょうど海外進出もたけなわになってきていてこの改革は大当たりし、3年後の2017年には史上最高のグローバル売上を自動車として記録した。

その中で中国に工場を建設せざるを得なくなり(冨士原は自動車の天津進出には反対だったが)天津の董事長を継続して任されていた恭作は天津に自動車工場を増築する事にした。一からやった一般産業用工場からすれば難易度はかなり低いと思ったし、天津工場との大赤字を何とかするにも自動車の進出は不可欠だったからだ。

またこの2014年は天津とほぼ同時にチェコ工場との検討を始めた。山王工場の改革、中国、欧州、そしてHWTC(第37話参照)参加復帰でアメリカへの出張と恭作にとって大忙しの年だった。

第66話:I’ll be back‼︎

3年間単身生活した京都のマンション横の二重の塔

2014年が始まってすぐの事だった。尾左社長から呼び出され今度は山王工場に帰任せよとの事だった。ようやく関西にも、一般産業ビジネスにも、京棚部工場の人達にも馴染んできて‘さあ、これから本格的にやりたい事やるぞ!’と思っていた時にだ。なんでも自動車がちょっと大変な事になっているとの事。戻ってもう一回立て直してくれといった内容だった。

何が大変なのかは詳しく聞けなかったので仲の良い人達から情報を得ると、要するに冨士原事業部長による3統括体制(技術=熊蔵、製造=宮字、営業=砂糖功)により横の連携が取れなくなっておかしくなっているとの事。具体例は生産技術は技術範囲なので熊蔵統括下、しかし製造に関する仕事もかなりあるのに、‘それは製造統括の仕事だからやるな’と熊蔵統括が製造支援業務を禁止したとの事。これには山王工場の製造部隊だけで無く、海外工場からもかなりのブーイングが出て、特に海外駐在員から尾左社長に直訴が入ったらしい。(社長クラスは海外拠点を良く訪問してるが、そういう情報取りも目的らしい)その他にも色々揉め事はあったらしいが、大体そんな組織がうまく行く訳が無い。その後行ったコンベヤ事業部でも似た様な事をやったらしいが上手くいかず、冨士原引退後は元に戻した様だ。

まあ、これで恭作を追い出した冨士原派閥は解体となり、A級戦犯の冨士原事業部長は隣のコンベヤ事業部へ、熊蔵役員は京棚部工場の技術開発センターへそれぞれ移動となった。(ちなみに冨士原はこの移動に対してかなりゴネて、移動するなら代表取締役との肩書きをくれ,嫌なら辞めると尾左社長に条件を出したらしい。それが一般人からは謎の代表取締役就任だ。辞めさせれば良かったのにと思ったのは恭作だけでは無い)

ここからまた山王工場の自動車事業部を恭作ワールドにする仕事が始まると気持ちを入れ替えた。とりあえずは移動の1ヶ月前位に下記のメールを現地人を含む海外の面々に送った。

I'll be back!!!

 Dear gentlemen.
I will be back to Automotive Division from this April as the division manager and CBO, 
while Mr.Fujiwara is going to go to Material-handling Division.
I am glad to do the business with you again.
I have gotten very good experience and power in PT division.
I think I can help you much more than before and you can help me either.
Please ready for 'Tony's operation'.
Best regards.

第65話:野良猫と大阪マラソン

仲良しだった野良猫ちゃん達と大阪マラソン

話は少し遡るが50歳でC型肝炎の治療の為47歳の時に次いでまた1ヶ月弱入院した。退院後もインターフェロン投与の副作用の為トータル半年間禁酒と激しい運動が出来なかった。ゴルフもラウンドはしてなかった。その運動不足の反動で51歳でハーフマラソンに挑戦、54歳でフルマラソンに初挑戦して55歳の時も2度目のフルマラソンを走った。(第53話の写真)

その習慣で京棚部に単身赴任してもほぼ毎朝数kmのジョギングをしていた。元々猫好きの恭作はジョギングコースで野良猫ちゃん達をナンパしてすぐ仲良くなった。この野良猫ちゃん達に朝御飯をあげなきゃというモチベーションでこのあ毎朝のジョギングは単身赴任中の3年間、二日酔いと関東に帰った時以外はほぼて続ける事ができた。

この野良猫ちゃん達の巣は鴨川沿いの空き地だ。ここに毎朝ジョギングに来るのだが色々な人間模様が見られて面白かった。例えば猫への餌やりおばさん。このおばさんは住んでいるマンションのそばでも見た事のある人で、乳母車に餌を積んでかなり広範囲を散歩しながら餌やりをしている様だ。恭作のジョギング時間と微妙にずれているのでほとんど遭遇しないが一度話をした事がある。そのおばさんによると夕方来るおばさんもいて、恭作も合わせると3人が餌やりしている事になる。

別の日にはねぐらを探している浮浪者風のおばさんにも遭遇した。このおばさんにも話を聞いたが、生活保護を受けているらしくその関係で目立たないねぐらを探しているとの事。

ここは餌やりの人がしょっちゅう来ますよと言ったらどこかに行ってしまった。

また、ある日結構なついてくれているメスの白猫が突然怪我をしてビッコをひいていた。心配した恭作には抱っこしたついでにバッグに拉致して動物病院が開くのを待って連れていった。診察券を作らなきゃいけなかったのでとりあえず嶋シロという名前にした。結果は大した事無く、元のねぐらに戻し一週間くらいで治った。あれからもう10年近く経つのだが、野良猫の平均寿命は4〜5年と聞く。あの子達はもうこの世にはいないのだろうが、生まれ変わって幸せな飼い猫になっていて欲しい。

そんな中、競争率がかなり高い大阪マラソンの抽選に当たったので当然出場した。添付の写真を見ると4時間56分台でゴールしているので、スタートできるまでの6〜7分を引くと4時間50分弱くらいのタイムで自己ベストだった。野良猫ちゃん達に感謝だ。しかしこのマラソンで膝を疲労骨折してしまい(それを知ったのは一年近く後転んで整形外科でレントゲンを撮った時だ。もちろん自然治癒していたのだが)その後マラソンはハーフですら走っていない。

お知らせ:次回から山王工場編に戻ります。また第53話で予告した嶋恭作の裏の裏シリーズ限定公開開始!

第64話: 焼結ブシュ内製化

ラムダチェーン

飲みに行って遊んでばかりいる話が続いて’何だよ、京棚部単身赴任って遊んでばかりじゃねーかよ’という声が聞こえてきそうなので、今回は真面目な仕事の話を書こう。

焼結金属のスプロケットやブシュ等の製造は元々山王工場でやっていた。4輪エンジンのクランクスプロケット、二輪エンジンのカムスプロケット、ベルト用プーリー、そして京棚部工場が作るラムダチェーン用ブシュが主な商品だ。しかし4輪エンジン用スプロケット群は一回ベルト化した為に自然減少、ベルト用プーリーは一般産業用が主体で鳴かず飛ばず、という事でちょうど恭作が役員になった頃、岡山の住電に設備を売却、必要なモノは住電から購入するというスタイルに変更になった。自動車事業部としてはそれで正解だった(焼結工場はサイレントチェーン工場に生まれ変わった)のだが京棚部工場としては人気のラムダチェーンの性能を左右する焼結ブシュが内製出来ず自由に開発できないのは悩みの種だった。

元々新入社員実習の時に焼結ブシュの成形は任されていてそこそこの知見もあった恭作は、京棚部唯一で随一の焼結専門家近道君の熱意に感動して京棚部工場内に焼結ラインを引く事にした。それには大きな3つの問題があった。1つ目は金、2つ目は場所、3つ目は製造技術ノウハウだった。金は幸い京棚部はもっと投資すべきという社長意見に乗って恭作が解決、場所は製造の面々が熱処理スペースを上手く空けてくれて解決、最後の製造ノウハウは近道君の頑張りで見事に立ち上げた。単身赴任の3年間の後半1年半位の期間でブレンド-成形-焼結-含油の全自動ラインを立ち上げた凄さには感服する。(しかし近道君は最近ガンで逝去されてしまった。心よりご冥福をお祈りする。)おかげでラムダチェーンはコストも下がり且つ開発.・改良もうまくできる様になり、今でも人気のチェーンとして活躍している。

第63話:京都のクラブ(その2)

京都の住宅街地下にある高級クラブで楽しむ東門君と恭作


第59話で登場した鉄一商事の石井さんがブラジルに転勤になる事になった。大の仲良しだった東門君と恭作は直ちに送別会をした。1次会は比較的恭作の住んでいる地域近くの割烹で普通に楽しく飲んだのだが二次会に行こうと盛り上がり、とりあえずタクシーを呼んだ。タクシーの運転手さんに「そう言えばこの前祇園のクラブのホステスさんにこの辺りに高級クラブが出来たと聞いたんですけど、こんな住宅街には無いですよね?」と尋ねると「ありますよ、お連れしますよ」とあっさり。冒頭の昼間の写真を見てもタダのか雑居ビルにしか見えないが、看板をよく見ると地下一階にそれらしき文字がある。夜でもネオンは点かず更にわからない。タクシーを降りると地下に行く鉄製の外階段がありその前に小さなインターホンがあるだけだ。タクシーの運転手さんは「それ押せば良いから」と言い放って行ってしまった。恐る恐るインターホンのボタンを押すと「会員の方ですか?」との男声。「いやいや、初めてでタクシーの運転手さんに紹介されて来ました」と答えると階下から黒服がやって来た。その黒服はジロリとスーツ姿の我々を品定めして「どうぞ、こちらへ」と階下の店に案内された。

店の中はグランドピアノで生オケが出来る巨大な会員制のクラブだった。どう考えてもビルの大きさより広い。駐車場の下も店なのだろう。価格システムは思っていたよりリーズナブルで2013年当時で入場料1万円,ボトルキープ1万円から(1万円は焼酎赤兎馬),ある時間過ぎると延長料金有りという感じで近所の恭作はすぐさま入会手続きを済ませた。個人的にもその後何回か来たが半年後くらいに山王工場への帰任命令が出た。うーん、残念(>_<)