嶋恭作の裏45年史

この話はフィクションであり登場人物とエピソードは全て架空のものです

第4話:担当業務の人間が4人になっちゃった❗️



2年間の使い走り業務を卒業し、恭作は設計開発業務に専念することになった1980年は国産エンジンの鉄製動弁同期装置の開発が終了する年でもあった。最後のエンジンは翌年発売になったスカイラインRS用FJ20(写真参照)というもので、これは3歳年上の蓋見さん(今後3Fとして度々このブログに登場するかもしれない)の担当だった。蓋見さんの属していた設計一班はこの年度で解散となり、1981年からは恭作が属していた設計二班のみが鉄製動弁同期装置の設計開発をするようになり、荻野谷係長、恭作、製造現場から抜擢された島屋さん、新入社員のアサヤンこと朝立君(多分朝立君も今後ブログに度々登場することになるであろう)の4人にだけになってしまった。その35年後に100人近くに膨れ上がると誰が想像できただろうか。

その時の業務は二輪用鉄製動弁同期装置(主にテンショナとガイドレバー類)、欧州車用鉄製動弁同期装置ニーズ探索,シートベルトリクライニング装置、農機用装置などで流石に量的に大した事無いが、二輪の開発速度とサイクルが異常で4人でやるのはキツく忙しかった。それ以外の技術の人は何をやっていたかというとゴム製動弁同期装置担当だ。1980年にトヨタからクレスタが発売されたが、これになんとか併注ながらも橋本智恵院のゴム部品が採用された。国産エンジンはこれ以降全てゴム製動弁同期装置に切り替わった。でもゴム部品はVベルト専門メーカーだった3社が強く、橋本智恵院は常に4番手、国内シェアも20%未満だった。新入社員も朝立君以降、その後役員になった熊蔵君までは全てゴム系配属で、今や役員の宮字、中窪両氏もゴム系出身の技術者だ。

その後発生した超神風が吹いてゴムと鉄が大逆転になっていなかったら恭作は橋本智恵院を辞めていただろう。それよりも(後に恭作が役員になった後知った事だが)その大逆転劇が無かったら橋本智恵院自身2000年初頭に消滅していたかもしれない。(この辺りの事情はかなり後のブログで説明しよう)

そう言えば橋本智恵院はこの頃からやたら脱現状ビジネスにトライし始めた。焼結スプロケットからの焼結プーリーは当たり前として、板金絞りプーリーの大規模プレス入れたり、それをひねって板金クラッチハブとかやり出した。いまだに細々とやっているオートテンショナもそれだが結局はどれも儲けにならず、結局はコア技術のある鉄製動弁同期装置の復活と唯一の新規ビジネス成功例のパワードライブの二本柱となった。今の脱エンジン→BEVビジネスの状況そっくりだが、歴史は繰り返すのではないだろうか?